法話を聞く・読む / 今月の法話

今月の法話

令和3年5月 No.397
いのちのいによって あなたはまれた

 さて、誰が私を私としているのでしょう?

 急な質問をしてしまいましたが、よろしければ考えてみてください。実は似たような質問をつい最近、息子にしました。

 この間、息子の爪を切っていると息子がため息まじりに「何で爪って伸びてくるのかいな」と。それに対して私は「ほんとにね。勝手に伸びてくるよね。でもさ、誰が爪を伸ばしようかいなね?」と聞くと、しばらく息子は考えて「僕かな・・・?」と答えました。自分の爪だけど、自分の力で伸ばしているわけじゃない。おそらく息子はこのように考えたのではないでしょうか。

 よくよく考えてみますと、爪だけではなく、頭のてっぺんから、つま先まで、私のどこを見ても私の意思とは関係なく、私が変わり続けています。私の体、私の命と思っていますが、何一つとして私の思い通りにならないのが私の姿です。

 では、何が私を私とさせているのでしょうか?その問いに仏教は「」と答えます。縁とは他の命とのつながり、支えのことです。生まれたときから今の今まで、はかり知ることが出来ない命の支えが私となっています。親がいて祖父母がいて、そのまた上に…と数え始めたら、きりがない。昨日食べた魚が、一昨日食べた野菜が、物心つく前に食べたお米が…その全てが私となる支えです。どの縁一つ欠けても今の私はいません。これからもそうです。縁によって生まれ、縁によって生き、縁によって死んでいくのが私です。いつの間にか自分の力で生きていると勘違いしてしまっていた私に、生かされている尊さ、不思議さを教えてくれるものが仏教です。生かされている命に気づかせてもらうとき、何を大事にして今を生きていくか、人生そのものの問いをいただきます。

福岡県筑紫野市 願応寺 中川 一晃