法話を聞く・読む / 今月の法話

今月の法話

令和8年5月 No.457
仏法かさにづかされる

 ある先生から、「人間は見立てがあまい」ということを聞かせていただいたことがあります。自らが自らを判断している姿は、だいぶ甘く見積もっているということです。そうかもしれません。他人に落ち度をつかれても素直になれず、「あいつにだけには言われたくない」と自分を正当化してしまいますし、認める部分があったとしてもどこかで「まだ自分は大丈夫だ、そうは言ってもまだまともだ」と自分を慰めながら生きております。しかし、本当の自分のことをどれだけわかって正しいと判断ができているのかは怪しいものです。

 むかし、友人の結婚披露宴に呼ばれたので、以前とは違う自分を見せたいと鏡の前で顔や頭を時間をかけ整え「よしっ!これならいける」と思い、会場に臨みました。見た目にも自信をもち、久々の友人たちとの再会に少し興奮しながらも、いつもより何割増しかで話を膨らませ自慢話をしたりします。盛り上がって気分がよくなっていると、お酒も入りトイレに行きたくなりました。トイレに行くと入口に大きな鏡があります。その時自分の姿を見て愕然としました。チャックが全開なのです。今までこれに気付かず自慢げに話をしていたのかと思うと急に恥ずかしくなりました。家の鏡は上半身しか映らないので、そこには気が回らなかったのです。トイレから戻ると急に口数少なくなったのを覚えています。

 さて、仏さまから見た私はどのような存在か。これを聞くことが仏法を聞くという一つの側面です。それは、仏法を鏡とし、自身を知らされ気づかされていくということなのでしょう。目の前のご馳走を多少濃淡で語り、命そのものをいただいているということすら忘れ、人間関係も損得勘定でご都合主義。それは当たり前のことで、それほど悪いことではないと生きております。しかし、これが罪深いことだと気づかされたのならば、その正反対のあり方をしている方の心がとどいたからでありましょう。

 「」は私が抱える罪業悪業をあぶり出す光であり、気づかせる鏡でもあります。気づかされたかぎりは恥じ入るばかりです。そこに芽生えた謙虚さを「お育て」とも言います。「仏法は愚かさに気づかされる道」なのです。

山口県玖珂郡 浄蓮寺 樹木 正法