今月の法話
智慧光 光につつまれたからこそ気づけることがある
今から20年ほど前、私が京都にある本願寺北山別院というお寺に勤めていたときのことです。突然、私の携帯電話に着信がありました。「もしもし」と電話に出ると、電話の向こうには母親の落ち込んだ声です。「どうしたの?」と訊ねると、「お母さん、もうだめかもしれない・・」と言って、急に泣き出してしまいました。電話の内容は、脳に動脈瘤があることがわかり、大きい病院で診てもらうため、紹介状をもらい、病院の理事長が診察してくれたそうです。
「この動脈瘤の場所が手術の困難な場所にある。ちょうど眼球の裏側にあるため、手術をした場合、良くて失明、悪くて絶命するかもしれない」と言われ、続けて、
「来週、また来院して、私の息子である院長と手術の段取りを決めなさい」
と言われ、絶望の日々を送ります。次の週に病院に行き、診察室で当の院長から、「CTやレントゲンを診たけれども、まだまだ動脈瘤が小さい。経過観察で大丈夫です。また一年後に来てください。お大事に・・」
と言われて帰されたそうです。母親は、どっちを信じていいのかわからず、生きた心地のしない日々を送り、疑心暗鬼となって、そのうちうつ状態になり、私に電話をかけてきたのでした。
気分転換のため、鹿児島から京都に来るよう母親に伝え、ダメもとで別院の近くにある京都大学付属病院で診断をお願いし、ありがたいことに診てもらうことができました。そこでの診断結果は、鹿児島の院長と同じもので、動脈瘤は大きくなく、経過観察。動脈瘤の場所も、「頭蓋骨から少しずれているから、もし破裂しても大丈夫。もし破裂したときは、新幹線にのって、私のいる京大病院まで来なさいね」とのお言葉。母親の顔が明るくなっていくのがわかりました。
阿弥陀さまの智慧の光は、太陽や月の光のような物質的な光ではありません。文字通り疑心暗鬼となっているガチガチの心を柔らかくしていく智慧のはたらきのことであります。疑いのなかに安らぎはあり得ません。「例え破裂しても大丈夫。私がついているからね」とその言葉が、母親の真っ暗闇の心に光となって闇を晴らし、疑う必要のない大安心となっていったのでしょう。
親鸞聖人は智慧光について、
「無明の闇を破するゆゑ、智慧光仏と名づけたり(【現代語訳】衆生の本願を疑う心を破り、信心の智慧をお与えくださる故に、阿弥陀如来を智慧光仏と名づけられた)」
とほめたたえておられます。阿弥陀さまの智慧の光に照らされながら、ともにお念仏の日暮らしをさせていただきましょう。 称名
鹿児島県曽於市 願成寺 藤 清道
今月の法話 バックナンバー(過去1年分)
下記より過去1年間の今月の法話のバックナンバーをご覧いただけます。- 令和7年1月 No.441/大谷 光淳 (門主)
- 令和6年12月 No.440/山﨑 弘純 (鹿児島県)
- 令和6年11月 No.439/福山 智昭 (福岡県)
- 令和6年10月 No.438/安方 哲爾 (大阪府)
- 令和6年9月 No.437/大松 龍昭 (熊本県)
- 令和6年8月 No.436/藤澤 彰祐 (滋賀県)
- 令和6年7月 No.435/柴田 弘司 (福岡県)
- 令和6年6月 No.434/中山 浩司 (山口県)
- 令和6年5月 No.433/星野 奏眞 (福岡県)
- 令和6年4月 No.432/小林 邦顕 (広島県)
- 令和6年3月 No.431/福岡 智哉 (兵庫県)
- 令和6年2月 No.430/松崎 智海 (福岡県)