法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.427)

今月の法話 バックナンバー

令和5年11月 No.427
聴聞 ひたすら

 浄土真宗はお聴聞が大切です。お聴聞の「聞」を
親鸞さまは、「といふは、衆生、
本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」とお示しくださっています。「」とは、すべての生きとし生けるものを分け隔てることなく平等に救い取るというさまの願いであり、この願いがなぜたてられたのか、その由来が「生起」です。そして「本末」というのは今すでに私たちのもとに南無阿弥陀仏というお念仏が至り届いていることを聞かせていただくことです。このことを「阿弥陀さまの願いのおいわれを聞く」とも言います。

 おいわれを聞くことの大切さを教えてくれたお話に、中学校3年生の女子生徒が書いた「コンプレックスから誇りへ」という作文があります。大まかではありますがご紹介いたします。

 作文を書いた女子生徒の左手首には物心ついたころから黒い小さなあざがあり、あるとき友人から「ねえ、このあざって何なの?」とたずねられたことがきっかけになって、だんだんそのあざがコンプレックスになっていったそうです。小さなころは何も感じていなかったけども、彼女はだんだんとそのあざを隠すようになります。

 あるとき爪を切ろうとしたらふとそのあざが見えたので、このあざができた「いわれ」をついにお母さんにたずねてみたのです。するとお母さんは最初「なんでそんなこと聞くの」と言わんばかりに目を丸くしましたが、すぐ真剣な顔になって「これは、あなたが生きているしるしだよ」とおっしゃいました。女子生徒は口をポカンと開けているとお母さんは続けて「あなたはね、予定日より2ヶ月早く産まれてきたから、体を強くするための薬を何本も何本もそのあざのところから入れたの。そのあざはそのしるしだから、あなたが生きているしるしなのよ」と、あざの「いわれ」を教えてくれたのです。

 その話を聞いて、女子生徒はあざをじっと見つめながら「このあざは母がお腹を痛めて産んでくれたこと、そして私を心配してくれたしるしだった」ことを知らされ、これまでコンプレックスだったあざが誇りへと変わっていったのです。それからは「このあざって何なの?」と尋ねられたときには「これは私の生きているしるしだよ」と答えるようになったそうです。

 たとえそのあざが誇りになったとしても、そのあざが消えてなくなるわけではありません。しかしコンプレックスが誇りになったことで、彼女の生きるエネルギーとなっていったわけです。「いわれを聞く」とはこういうことではないでしょうか。

 この私を決して見捨てることのない仏さまがいらっしゃる。だからこそ、この仏さまが立ち上がり、そしてこの私が必ず救われていく南無阿弥陀仏のお名号となり、今私に至り届いている。そのことを聞かさせていただくのがお聴聞です。

鹿児島県曽於市 願成寺 藤 清道

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